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オヒルネスポット

神社のはなし

自分が昔書いた文章見てると、

考え方のクセみたいなのに気づく

今年、全然書いてないから書こう

遊学のこととか、仏教のこととか、年のとり方とか、おじさんのこととか、

たくさん書きたいことがあるけどひとまず神社について書く

そういえば昨日の丸の内は一味違った

仏教と神道、お寺と神社は別物だって考えられてるけど

それは明治時代以降の政策とか廃仏毀釈で、そうなったわけで

日本人には両方作用していて、そんな信仰の名残で「日本仏教」とか言われてる

だから江戸時代、お寺でも神社でもただ手を合わせて

仏さま、神さまに御礼するだけだったんだよ

明治以降から二礼二拍手一礼が始まったんだよ

だから初詣で無理にしなくてもいいと思う

今年はお寺はもちろん、式年遷宮の伊勢神宮と出雲大社にも行けた

縁起よさ気だけど、それより印象に残ってる神社があって

人生が上昇気流になって自分を戒めたいときに行きたいところ

今年中にそのことについてすごく書きたくなった

その神社も、出雲大社と同じく島根にあるんだけど、まだあんまり有名じゃない

でもちょっとしたパワースポットで有名になってきてる

韓竈神社 からかまじんじゃ

出雲の市街地からも離れてて、公共交通機関ではアクセスしにくいし

近くのちょっとした広場に着いてからも、人も少ない集落の山道を入って

木の杖を持って、急な階段を登って、

岩が重なっている、その40センチくらいの隙間を通って

やっとお社に辿り着く

お社は半畳あるかないかくらいの大きさで

管理されている方の計らいで

参拝に来た人がメッセージを残せるノートがある。もちろんだれでも書ける。

神社の起源は謎なところが多くて、人も少なくて、日もあまり当たらなくてひやっとしてて、

階段は手すりを付けてくれてるけど、気を抜いたら足すべらせるんじゃないかってくらい狭い、湿ってる

でもなんかしゃんとする。

集中するし、びびってるから音とか、匂いとか、湿度にすごく敏感になる

恋愛成就の神様とか言われているみたいだけど

何年かに一度自分を試す感じで行きたい神社

何個もの障害を乗り越える過程で、ヒッチハイクしたり

バスの運転手さんと仲良くなったり、

現地の人と出会いながら乗り越えていく感じ

そういう非日常な行動する時に、普段の自分の考え方と行動に気づく

行き方は現地の人に、観光事業に携わってないっぽい人に訪ねて

生き方は帰路で考えて

“ちゃんと生活していないと、例えば毎日ちゃんと飯を作り、食べて、よく寝て、掃除洗濯していないと、どこか自分が虚ろになって、自分に虚勢を張らざるを得ず、いざという時にすぐ余裕を失くし、取り返そうと一発逆転を狙い、また余裕を失くして、の繰り返しになる。即ち生活とは踏ん張りの為の足場。”
— Twitter / raitu (via kikuzu)

仏教日常化

とにかく昔から日常から逃げているところがあって、平日を自分で休日に変えてしまったり、環境を変えようともがいてみたり、物質的にも精神的にも、いつもなにかを無理やり変化させようとしていた。

3月に出発した仏教遊学もそろそろおしまい。
インドの後は、ヨーロピアン仏教を見てみたくてイギリスに行くけど、多分、タイと同じように表面的なところしか見れないと思ってる。

4月からの約3ヶ月間滞在したラダックでの生活こそ、生活を通して仏教を学ぶ、まさに仏教遊学だった。
平均週一で泣いてたけど、辛いことの方が多かったけど、とってもいい経験になった。経験に無駄なんてないって、私が信頼してる大人はみんな言う。でもこの経験は今後の私の人格の核の一部にさえなるだろうと思う。

なぜなら、私はラダックで日常を形成したから。このことは仏教について学んだ事を生かすことの出来る最高の環境だった。密着したからこそ嫌なこともあったけど、そんな時、仏教の考え方は有効な道具になった。学んだ事はたくさんある。授業で覚えた仏教の教義や仏像の名前だけじゃなくて、生活の中で、人との関わりから、自分の過ちや思考の癖を冷静に考えることが出来た。

たった3ヶ月で、所詮、私は旅行者で何にも責任を負わないのだけれど、そこには確かに日常が存在していて、私はコミュニティの一員だった。
だからこそ、外国人はなかなか近づけない、比較的現地の人に近いポジションから、ラダックの仏教徒の特徴を客観的に見れた。

この経験はとても大切な宝物だけど、日本に帰った後に、考えた事や感じた事を日常で生かすことの方がもっと大事だから(これは受け売り)、仏教の勉強はこれからもずっと続けるけど、学んだ事をリアライズする日常も大切にする。不必要に非日常にしない。だから日本に帰って、復学する。大学生としての今を大切にする。
専攻も将来も、少しずつ日常に近づける。

次ラダックに戻ってくる時は、もっと日常と周りの人を大切に出来る、いい女になった時。フェロモン垂れ流して。

母の日

仏教ロマン玉砕、モヒート漬けのタイからまたインドのラダックに戻り、
当初の予定とは全く違うけど、
お寺にあるゲストハウスで、お坊さんたちとわいわいしながら、教授のもとで仏教の勉強をさせてもらうというとても恵まれている環境で生活してる。

ネットもテレビもコンビニもモヒートもなく、フィードのリア充を目にして落ち込んだり、あれもこれもと欲望の元となる情報に触れることもなく、自分の気持ちに素直になれている。

仏教の授業は教授とマンツーマンで、英語でやってもらってる。私自身の問題に焦点を当てて、言葉と知識をお互いにすり合わせながら、ベーシックな仏教の教義を教えてもらっている。カウンセリングみたい。
日本にいる時は、大学の授業と独学だけで、仏教の歴史とか世界観とか、用語を調べたりするだけで、自分の生活において仏教を現実化できなかったし、自分の考え方のどんな部分が仏教と一致しているのか具体的には分からなかったけど、
幸運なことに良い先生に恵まれて、心理的に余裕を持てる環境で、授業で学んだことをすぐに自分の属しているコミュニティで生かしたり、ピュアな仏教圏で他の人がどんな風に仏教の影響を受けているのかを見ることが出来る。もう数ヶ月、ダライ・ラマの夏のティーチングまではここにいるつもり。

感じ悪いおばさんとかいるし、自分が短気でお客さんとケンカしたり、嫌なこともあるけど、嫌なことがある方が、自分を落ち着かせるために仏教に沿って考える機会が増えるので良いとしている。今学んでることを日本の生活でもでも生かせるように、毎日を大切に生きる!

そして母の日、過ぎちゃったけど、最近の授業の内容から、仏教遊学も即了解してくれた最大のスポンサーである母上に感謝を示したいと思う。

仏教における『思いやり』について。
思いやりとは、すべての人、生き物に対し、考えて、その対象が抱える苦しみからの解放されるのを願うこと。
苦しんでいる人の立場になって、その人の苦しみに焦点を当てる。そう努めることは、他の人を助けることをより簡単にする。

自分の大切な人、距離の近いひとに思いやりを持って、私の出来ることはなんでもやってあげようって思うのは簡単だけど、全く知らない人とか、苦手な人とかにはどうも難しい。
思いやりを自然と持てるようになるために、まずは思いやりの心を家族に思いやりを向ける。
1番距離が近いのに思いやりを向けるのを忘れてしまう、家族。親。兄弟。ついつい甘えてしまって、相手の気持ちを考えることさえしてない。
思いやりの対象を家族から徐々に広げていくことで、他人にもその気持ちを向けることが出来るようになる、らしい。

親はまだ元気だし、まだまだ自分が頼る側だけど、家族に対してこれからは思いやりの心を忘れないようにしよう。どんな時も、思いやりをもって私を育ててくれてありがとう。

会社をやめて、夢に向かって頑張りつつ、もう何かのせいにせずに自分の人生を楽しみ尽くそうとしている母の姿と「好きなことしいな」という言葉は、モラトリアム真っ只中の私にとても影響を与えている。

にじかは元気にやってるから、心配しないで、体調に気をつけて、お酒飲みすぎないで、ほどほどに頑張れ、いつもありがとうお母さん!

thx Thailand
i had a good time cuz kind people and mojito

cherbawabaleeb:

Easily one of my favorite photos I’ve ever seen.

cherbawabaleeb:

Easily one of my favorite photos I’ve ever seen.

仏教体感

止まらない下痢と薄い酸素の中で、いつものように、結末のない小難しいことを考えていた時に、部屋に男の人が入ってきた。
エンジ色の袈裟の上にダウンジャケットを羽織っていた。
外は10度以下だっていうのに、丸めた頭はなにも被っていなくて、寒そうだった。

挨拶をして、自己紹介をして、近所のおばさんもやって来て、チャイを飲みながら、ひととおり世間話をした後、星型の刺繍の入ったお守りを渡された。
それは紙が何層にも重なって作られていて、中には文字が書いてあるみたいだったけど、小さく折りたたまれて、糸でしっかり綴じられていた。

それから、どこから出したのか、色褪せた赤い表紙の分厚い本を開いて、ちょうど真ん中くらいのページを詠みはじめた。
誰に言われたわけでもなく、自然に座禅をして、手を合わせて、目を閉じた。
チベット語だから、なにを言ってるかも分からないけど、私のために読経してくれているらしい。
リズムよく、お経を読み上げる、お腹に響く低い声も心地よかったけど、誰かが自分のために祈ってくれているのが嬉しかった。
どれくらいそうしていたのか分からないけど、読経の声が聞こえなると少し淋しかった。

仏教徒と同じくらいイスラム教徒がいて、ヒンディーとかクリスチャンもいるラダックだけど、病気がどうしてもよくならない時には、宗教関係なく、チベット仏教のお坊さんを呼んで、マントラを読んでもらうらしい。
タヤタガテガテパラガテパラサムガテブティスワァ

その後、元気になってからこの時のお坊さんの、お寺にあるお部屋に招いてもらった。

仏教の考え方や問答、そもそも仏教に興味を持ったキッカケでもある、個人的な問題について話した。
この出来事の前に、仏教大学に行ったり、ギャオ・カルマパに会ったりしたけども、この時やっと、仏教遊学っぽくなってきたと思えた瞬間だった。
お坊さんと話して考えたことは、もうちょっとまとまったら書こう。

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